築城年代は定かではない。
伊達稙宗と輝宗が争った天文の乱の頃は、伊達稙宗方の堀越能登守が城主であった。堀越氏は晴宗方であった二本松城の畠山氏を攻めて稙宗方とした。西山城に幽閉されていた伊達稙宗は小梁川宗朝によって西山城から救出され、懸田城を経て天文12年8月に八丁目城に入った。翌13年に伊達輝宗は八丁目城を攻撃、翌14年に稙宗は八丁目城から大森城へと移っている。
元亀年間(1570年〜1573年)堀越能登守宗範は二本松城主畠山義国に内通し、八丁目城が畠山義国の手に落ちたため、天正2年大森城主の伊達実元が八丁目城を奪い返した。天正11年(1583年)実元は嫡男成実に家督を譲って八丁目城に隠居した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の奥州仕置きで浅野長政が一時八丁目城に滞在した。
八丁目城は標高251mの山に築かれている。現在は主郭下に愛宕神社が祀られており、参道がある。
山頂に一段小高くなった円形の曲輪が本丸で南東下に愛宕神社がある。本丸を取り囲むように帯曲輪があり、曲輪は南と南東の尾根に展開している。周囲は畑として開墾されており地形は改変されているが、南東尾根には先端付近に堀切がある。南尾根は主郭との間に大きな堀がある他は堀がない。主郭付近の西側面には大きな横堀がある。
まつかわ西幼稚園、松川地区体育館に登る道のところに案内板がある。参道は幼稚園脇から谷筋を登っていく道が付いている。
最寄り駅(直線距離)