築城年代は定かではないが鎌倉時代に伊達朝宗によって築かれたと云われる。 伊達朝宗は藤原氏山蔭流の後裔で仙台藩伊達家の祖である。常陸国新治郡伊佐荘を治めていた豪族で、源頼朝に従って奥州合戦に参加し、その恩賞として陸奥国伊達郡を賜り、常陸国は嫡男為宗が相続し、朝宗と二男宗村が奥州に下向、赤館を築いたという。
応永7年(1400年)伊達大膳大夫政宗は関東公方足利満兼に背き、関東管領上杉氏憲らの攻撃を受けて赤館に籠もり、これを撃退しているが、応永9年(1402年)に降伏している。
天文元年(1532年)伊達稙宗が赤館を改修して西山城を築き、梁川城から居城を移した。 天文11年(1542年)から天文17年(1548年)まで続いた伊達稙宗・晴宗父子による天文の乱では、晴宗は稙宗が鷹狩からの帰路を襲撃し、この桑折西山城へ幽閉している。間もなく小梁川宗朝によって稙宗は救出され石母田城へ逃れるが、天文の乱とよばれる奥州を巻き込んだ伊達家の内訌へと発展していく。
天文17年(1548年)室町将軍足利義輝による仲裁で和睦が成立し、稙宗は家督を晴宗に譲り隠居地として丸山城を築いた。晴宗は米沢へ移り西山城は廃城となった。
延宝7年(1679年)本多忠国が大和郡山から福島藩十五万石に封じられ、西館に築城する予定であったが、天和2年(1682年)播磨国姫路に転封となり実現しなかったと云われる。
桑折西山城は奥羽山脈から東へ伸びた丘陵の先端頂部に築かれており、北から東、南へと産ヶ沢川が流れている。
桑折西山城は標高193.1mの高館山山頂にある高館山城本丸、西に二ノ丸、南に砲台場。そして、その西の標高215mの所に西館・中館があり併せて西山城となる。
高館城本丸・二ノ丸は土橋の架かる空堀があり、本丸の東下に東虎口、南の砲台場の所に大手門跡がある。二ノ丸の西端には石積された土塁があるが、全体的に広大な削平のみの曲輪となっている。南にある砲台場跡は戊辰戦争のときに仙台藩が砲台を据えた所で、土塁に等間隔で砲台を据える為の凹みが残っている。
高館城本丸より高い標高215mの所にあるのが西館・中館で、土塁(石塁)囲みの曲輪が空堀を挟んで東西にあり、北側はさらに横堀が巡っている。中館の南側には「ル」の文字のような形のI時の土塁とL字の土塁が付いているが、用途は不明。西館は西側一帯は石塁になっており、西側に虎口のような石塁囲みの空間が残るが、このあたりの石積みは後世の改変である。
西館と中館は本丸よりも高い位置にあり、さらに横堀や枡形虎口など本丸周辺より発達した遺構が確認でき、発掘調査などによってもこのあたりが戦国末期に改修されたことが指摘されている。
城門(移築 城門)
城内まで車で行くことができるが、道が狭く観光客の増加もあるため、歩いて登るのが良い。南麓にある観音寺前に駐車場があり登山道入口がある。
「万正寺の大カヤ」のある「老人福祉センター 大かや園」内にガイダンス施設があり出土物などの展示がある。
また伊達氏の祖である伊達朝宗の墓が福島県伊達郡桑折町万正寺下万正寺(地図)の下万正寺集会所近くにあり、つつじヶ岡遺跡に車を駐めることができる。
最寄り駅(直線距離)