築城年代は定かではない。築城に関しては伊達氏の祖である伊達常陸介朝宗とか、三代義広であるとか諸説あるが判然としない。ただ九代大膳大夫政宗はこの梁川城で生まれた可能性が高いようである。
天文元年(1532年)伊達稙宗が桑折西山城へ居城を移し、その後は稙宗の八男伊達宗清に与えられ、梁川氏を称した。
天正19年(1591年)小田原合戦の後、伊達政宗は岩出山へ転封となり、梁川は会津に入部した蒲生氏郷領となって蒲生頼郷が城代を務めた。慶長3年(1598年)上杉景勝が会津に入部すると須田長義が梁川城代となる。寛文4年(1664年)上杉氏は十五万石に減封となり、幕府直轄領となった。近世城郭としての梁川城は蒲生氏・上杉氏の時代に改修されたものと考えられている。
その後は本多、松平、白河などの所領となったが文化4年(1807年)に松前領となり、一時幕府領となったが、再び松前領となった後は代々続いて明治に至る。
梁川城は旧梁川小学校一帯に築かれていた。梁川小学校は先の東日本大震災によって被災して別の場所に移転することとなったようである。
梁川城は梁川小学校に本丸、南の梁川高校と西に二の丸、北と東に三の丸があった。現在小学校の校庭に石垣と庭園がある。もう一つ北の桜岳団地に隣接する公園に水堀と土塁、そして大きな枡形の虎口が残されている。