文治5年(1189年)源頼朝が陣を置いたのがその始まりと云われる。 文治5年(1189年)奥州合戦のとき、阿津賀志山防塁に陣取る奥州藤原軍に対し、鎌倉軍を指揮する頼朝がここに本営を置いたと云われる。この山をとくに「源宗山(げんそうやま)」と呼ぶのはこれに由来する。
南北朝時代になると霊山城の支城として宇津峰城や川俣城とともに南朝方の城となり、貞和3年・正平2年(1347年)北朝方の奥州管領吉良貞家の攻撃を受け、激戦の末落城した。
室町時代には伊達の家臣藤田氏の居城であったと考えられているが詳らかではない。藤田氏の出自は詳らかではないが、古くより伊達氏に仕えた古来の一家であった。しかし、天文年間(1532年〜1555年)頃にはその名跡は途切れており、懸田城主懸田兵庫頭俊宗の二男七郎晴親が藤田家の名跡を継いでいる。しかし、伊達稙宗と晴宗の内訌である天文の乱において懸田氏と藤田氏は稙宗方となり、天文22年(1553年)懸田氏は滅亡、藤田晴親も相馬氏を頼って落ちた。
その後、晴親の二男四郎宗和が伊達輝宗に帰参を許され再び藤田家の名跡を許された。 奥州仕置きにより伊達氏が転封となると、藤田氏は岩谷堂城へ移ったが、延宝6年(1678年)孫の藤田右兵衛宗景のとき罪あった死罪となり藤田氏は断絶となった。
藤田城は藤田小学校の西にある標高100m程の丘陵に築かれていた。
現在山上は東半分が宅地化されており、西半分が公園となってその入口に案内板が設置されている。西側に土塁が巡り、北西側にあるのが桝形虎口の名残という。南西下にある水雲神社一帯が二ノ丸とされ、さらに下方の八雲神社付近は山崎小館があり、藤田城の根小屋とも考えられている。