築城年代は諸説あり定かではないが、鎌倉時代に千葉胤道によって築かれたと云われる。
南北朝時代以降江刺氏が勢力を伸ばした為、葛西氏との争いが多くなり度々合戦が行われた。 明応4年(1495年)の合戦で江刺氏が敗れると岩谷堂城には葛西政信の孫重胤が城主となる。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかった葛西氏は、奥州仕置きによって改易となり、岩谷堂城には木村吉清の家臣溝口外記が入った。しかし、葛西大崎一揆との戦いで外記は討死、一揆鎮圧後は伊達政宗の所領となり、家臣の桑折摂津守が入った。万治2年(1659年)伊達宗規(岩城宗規とも)が岩谷堂要害五千石で転封となり、岩谷堂伊達氏となった。この宗規の時代に大手の移転など大規模な改修があった。その後は岩谷堂伊達氏が代々続いて明治に至る。
岩谷堂城は人首川に面した標高115.4mの館山に築かれている。現在は館山史跡公園として整備されている。
本丸は標高115.4mの山頂にあり円形の曲輪の周囲に土塁と空堀が巡り、曲輪内には八幡神社などが建っている。本丸の南西のグラウンドになっている部分が二の丸で、南端には大手の桝形門があった。
旧岩谷堂小学校のグラウンド東側には三瓶門、西麓の興性寺には二の丸裏門がそれぞれ移築現存している。
三瓶門(移築 城門)
二の丸裏門(移築 城門)
江刺藤原の郷側から陸橋を渡った所に館山公園の駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)