築城年代は定かではない。室町時代には葛西氏の家臣三ヶ尻氏の居城であった。
三ヶ尻氏は葛西詮義の三男清義を祖とする一族で、清義の後、清秀、恒逢と続いた。 天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかったため、奥州仕置きにより葛西家は没落、恒逢も主家江刺氏とともに没落したが、恒逢が秀吉の軍監浅野長政に主家の再興を直訴し、南部家の家臣となることを許されたという。慶長8年(1603年)恒逢は和賀倉沢館に封ぜられている。
丸子館は北上川による段丘の東端に築かれている。 前館、後館、三瓶屋敷などの曲輪群から成る館で現在は雑木林である。
三ヶ尻集落を南北に走る道路沿いに案内板が設置されており、そこに丸子館入口の標柱が建っている。この通りの北と南にそれぞれ空堀によって区画された曲輪群があり、一部は木が伐採されているものの、草木が生い茂っていて内部に入るのは難しい。