築城年代は定かではない。延暦21年(802年)坂上田村麻呂が蝦夷征討時に城を築いたのが始まりとの伝承がある。
中世には葛西氏の家臣小野寺氏や柏山氏などが居たとされるが、これも定かではない。
江戸時代になると仙台藩伊達領となり、金ヶ崎要害として慶長7年(1602年)桑折景頼(石母田景頼)が入部した。慶長19年(1614年)大坂冬の陣では伊達秀宗の後見人を務め、戦後伊予国宇和島十万石が伊達秀宗に与えられると、景頼もまた伊予へ移り伊予国河後森城主として七千石を領した。
元和元年(1615年)留守宗利が一関より金ヶ崎へ移り一万石を領したが、寛永6年(1629年)水沢へ移った。その後、金ヶ崎要害は一時途絶えていたが、寛永21年(1644年)大町定頼が二千石で入部し後に三千石に加増、以後九代続いて明治に至る。
金ケ崎城は北上川と宿内川が合流する地点の南側の台地に築かれていた。
金ケ崎城は本丸、二の丸、蔵館、東館、観音館などの曲輪から成る城郭であったが、大町氏の時代にはすでに北上川による浸食で本丸から二の丸へと中枢機能を移していたようである。現在は蔵館が浸食によって消滅し、本丸、東館、観音館の一部も浸食されているという。
金ケ崎城は城内集会所から諏訪公園に向かう間に大きな案内板が設置されており、この付近に空堀や土塁などの遺構が残るが、この辺りがどの曲輪なのかよく分からなかった。
県道108号線沿いに看板などが建っている。城内集会所から行き止まりと書いてある方に歩いて行くと広場があり、そこに案内板が建っている。
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