築城年代は定かではない。 戦国末期の城主は河原淵教忠(渡辺)で土佐一条氏一族の東小路家から政忠の養子となった人物だが重臣芝氏に城を追われる。 芝氏は土佐を統一した長宗我部氏に通じ西園寺氏に敵対した。
豊臣秀吉による四国平定後は城番が置かれ、藤堂高虎が宇和島城を築城した際には河後森城の天守を月見矢倉に移築したと伝えられる。 慶長19年(1614年)伊達秀宗が宇和島に入部すると、付家老桑折氏が七千石をもって居城としたが、元和の一国一城令により廃城となったようである。
河後森城は松丸駅の南に聳える標高170m程の山に築かれている。河後森城は風呂ヶ谷と呼ばれる南に開口する谷間を囲むように巡る尾根に曲輪を配しており、現在は国指定史跡として良く整備され各曲輪を散策できるように遊歩道が整備されている。
河後森城は井戸のある風呂ヶ谷を囲むように、南西から西第十曲輪、本郭、古城、南東の新城の各曲輪群から成る。曲輪は殆ど土塁がなく、堀切も少ない。
西第十曲輪は復元された門、建物、土塁がある。堀切は古城第二曲輪と東第四曲輪の間が明瞭で、新城の東尾根は整備されていないが二重堀切で遮断している。
井戸のある風呂ヶ谷を取り囲む様に新城・古城・本郭等を配している。 各曲輪群は尾根続きで北麓の永昌寺は居館跡、天満神社も出丸跡だという。城門(移築 城門)
まず松丸駅(松野町ふれあい交流館)を目指すのが良い。ここに河後森城の縄張図入りのパンフレットなどが置いてある。
車の場合、城山の南にある風呂ヶ谷入口の駐車場が利用しやすく、西の松野西小学校側、もしくは東の県道8号線側からも道標が出ている。
徒歩の場合、駅から南へ歩いて行き突き当たりを東へ曲がると永昌寺へ入る細い路地がある。この奥に登山口があり、入口に「河後森城」の石碑が建っている。
最寄り駅(直線距離)