築城年代は定かではない。天正年間(1573年〜1592年)に葛西氏の家臣小野寺伊賀守道照が登米から一関へ移され、一関城を居城とした。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の奥州仕置きによって葛西氏は滅亡し、その所領は木村吉清に与えられたが、間もなく葛西大崎一揆が起こり、鎮圧後は伊達政宗の所領となった。
伊達政宗ははじめ重臣の留守政景を一関城主とし北東麓に居館を構えた。寛文年間(1661年〜1673年)伊達政宗の十男伊達宗勝が三万石を領して一関藩となった。しかし、伊達騒動によって宗勝は所領没収のうえ土佐藩にお預けの身となり一関藩は一代で消滅した。
天和2年(1682年)伊達家の分家田村建顕が岩沼から一関へ移され、一関藩が再興、以後代々続いて明治に至る。
一関城は一ノ関駅の西、磐井川に面した釣山に築かれていた。現在は釣山公園となっている。
中世一関城は釣山に築かれていたという。主郭とされる山頂には田村神社が祀られており、公園化されている影響もあって、城郭遺構はさほど明瞭ではないが、麓のほうまで段曲輪を見ることができる。山腹には田村藩主の井戸なども復元されている。
近世一関藩の藩庁となっていたのは北東麓部分で、西城病院から西側一帯が藩庁跡である。駐車場の入口部分には「時の太鼓・やぐら跡」があり、その脇に一関城本丸絵図という案内板が設置されている。
釣山公園の無料駐車場がある。
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