築城年代は定かではないが鎌倉時代に石母田氏によっ築かれたと云われる。 石母田氏は甲斐源氏の後裔で、伊達朝宗が奥州合戦で戦功を挙げ陸奥国伊達郡を賜って以来の家臣である。
伊達稙宗と晴宗は上杉氏への養子問題や相馬氏へ領地割譲問題などで対立、天文11年(1542年)晴宗は稙宗が鷹狩からの帰路を襲撃し、桑折西山城へ幽閉した。間もなく稙宗は小梁川宗朝によって救出されるが、天文の乱とよばれる奥州を巻き込んだ伊達家の内訌へと発展していく。救出された稙宗はこの石母田城へ入り拠点となった。翌天文12年(1543年)懸田俊宗の懸田城へと移ったが、懸田氏の家臣が晴宗に通じて内乱が起こり、再び石母田城へ戻った。同年10月、伊達晴宗が石母田城へ総攻撃を掛け外郭が破られると稙宗は堀越右衛門の信夫八丁目城へ移り、その後石母田城も落城した。
天正18年(1590年)秀吉の奥州仕置きにより石母田城は破却され、石母田景頼は荒山城へ移った。
石母田城は北西隅に主郭を配し、東から南を覆うように二ノ丸・三ノ丸を配している。 主郭は東と南に虎口を開き、南は馬出を備えていたようである。
主郭を巡る水堀が現存しており、東の虎口に架かる土橋を渡って主郭内に入ることができるが、中は畑になっている。南側の虎口も確認したかったのだが、民家があり、どこから入るのかわからず確認できなかった。