寛文4年(1664年)米沢藩主上杉綱勝が嗣子なく急死し、上杉家は存続の危機となったが、会津藩主保科正之の計らいによって領地半減で存続が許された。これにより、米沢藩領であったこの地が幕府直轄領となった。
その後、一時福島藩本多領となっていたが、天和2年(1682年)より再び天領となり、貞享2年(1685年)に桑折陣屋が築かれ、幕府より代官が派遣された。初代代官は拓殖伝兵衛であった。
元禄13年(1700年)松平忠尚が白河新田藩から桑折へ所替えとなり桑折藩の陣屋となった。 松平忠尚は肥前国唐津藩主松平乗久の子で陸奥国白河藩主松平忠弘の養子となり、白河藩主となるはずであった。しかし、病弱で廃嫡となっていた忠弘の実子清照に嫡男忠雅が誕生したことから御家騒動に発展し、幕府の裁定により忠尚は白河新田二万石を分知し別家を立てることで決着していた。この御家騒動により白河から山形へ減封されていた松平氏は、文禄13年(1700年)備後国福山へ転封されることとなり、忠尚の所領が白河新田から桑折へ移された。
桑折藩松平氏は参勤交代を行わない定府大名であったことから、陣屋には代官が派遣されていた。松平氏は忠尚の後、忠暁、忠恒と続き、延享4年(1747年)領内の半田銀山に有望な鉱脈が発見されたことから忠恒は上野国篠塚へ転封となり、再び天領となり明治に至る。
桑折陣屋は現在の桑折町文化記念館の東隣付近に築かれていたという。 国指定重要文化財である旧伊達郡役所があり、建物の東側に桑折陣屋の碑と案内板が設置されている。
陣屋があったのは道路を挟んだ東隣の部分で、現在は宅地となっており遺構はない。