築城年代は定かではないが鎌倉時代に桑折親長によって築かれたと云われる。 桑折氏は伊達氏四代伊達政依の庶長子である親長が桑折郷へ住んで桑折氏を称した事に始まる。
天文11年(1542年)稙宗は三男実元を上杉定実の養子として送り込むことを画策し、精兵100騎を随行させようとしたが、伊達家が弱体化することを懸念し稙宗を阻止するよう晴宗に進言したのが、桑折景長と中野宗時である。これによって稙宗を桑折西山城に幽閉し、稙宗・晴宗父子による伊達家の内訌である天文の乱となっていく。
天文の乱の終結後、伊達晴宗は伊達家家督・奥州探題となり、桑折貞長は守護代に補任された。
天正19年(1591年)奥州仕置きにより伊達政宗が岩出山に転封となると、桑折政長も岩谷堂城へ転封となり、播磨館は廃城となった。
播磨館は阿武隈川による河岸段丘の南端に築かれていた。 東と西は自然の谷、南は段丘、北を堀切と土塁で遮断した館であったが、現在は宅地となっており、明瞭な遺構は確認できない。
北の空堀があった所と思われる道路を上った所に標柱が建っている。字がかすれて読めないが、「史跡」と「館」は読み取れるのでこれが播磨館の標柱だろう。