築城年代は定かではない。元亀元年(1570年)頃には伊達輝宗の家臣新田義直が舘山城主であったが、中野宗時の謀叛に加担したため切腹を命じられた。
天正12年(1584年)伊達輝宗は家督を政宗に譲って隠居し、その居所として舘山を普請したが、翌13年に没した。天正15年(1587年)には伊達政宗が館山城を普請しているが、天正19年(1591年)陸奥国岩出山に転封となっている。
また、近年の発掘調査によって米沢に入部した上杉景勝も舘山城を改修したと推測されている。
舘山城は鬼面川と大樽川が合流する地点に半島状に突き出した丘陵に築かれている。現在は国指定史跡として整備されている。
舘山城は山上にある大きく三つの曲輪と、北山麓の舘山北館、南東山麓の舘山東館の遺構からなっている。東端の曲輪iは最も広く虎口は北、南、そして西に開いている。北と南はそれぞれ山麓の曲輪から通じる虎口である。西の虎口は内桝形で、発掘以前は確認できなかった石垣によって固められた虎口が現在は確認することができる。また川原石が多く露出し、通路を塞ぐ形で残されており、これは枡形を使えなくする破城処理の一つである。この西虎口の石垣が上杉氏時代のものと考えられている。
曲輪iとiiiの間にあるのが曲輪iiで北西隅に虎口がある。西は大土塁でその外側に大空堀がある。虎口は北の帯曲輪に通じ、さらに西の曲輪iiiに通じる。この曲輪iiiは規模が小さな、西に土塁と空堀があるが、その先はやや小高く自然地形のままとなり、土塁の南端に物見と考えられる小高い土壇が残る。
現状の縄張りでは東端の曲輪iが主郭と考えられるが、発掘調査の結果では曲輪iiが主郭と推測されている。西の枡形虎口は上杉氏の改修と考えられており、伊達氏時代の主郭が曲輪ii、上杉時代の主郭が曲輪iと推測されている。
舘山状への道標が国道沿いに出ている。ここから入ると案内板があり、その先に駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)