築城年代は定かではない。
応永7年(1400年)伊達大膳大夫政宗が一族の長倉入道と謀って関東管領足利満兼に叛き、赤館と長倉城に籠もった。これに対して足利満兼は岩松氏を大将として攻めさせたが大敗、今度は勅使河原兼貞を大将として攻めたが、これも一騎残らず討ち取られ兼貞も捕らえられた。その後、上杉氏憲を大将として大軍で討伐に向かわせ、伊達氏は降ったという。
長倉館は長倉氏の居城として代々続いたと推測されている。
長倉館は伊達小学校一帯に築かれていた。東西に二つの曲輪がある複郭の平城で、伊達小学校の部分が西曲輪、東が本曲輪であった。
城跡は住宅地と化していて遺構はほぼ残っていない。わずかに小学校の東側にある稲荷神社が土塁の残欠の上に鎮座している。その南に南北に走る道路が西曲輪と本郭の境界であった。