天文17年(1548年)伊達稙宗によって築かれたと云われる。
伊達家第14代当主伊達稙宗は越後上杉家への養子問題や相馬氏への領地割譲問題などで嫡男伊達晴宗と対立、奥州を巻き込んだ天文の乱と呼ばれる争いへと発展した。この争いは天文17年(1548年)室町将軍足利義輝による仲裁で和睦が成立し、稙宗は家督を晴宗に譲り隠居地として丸山城を築いた。
丸山城を隠居城、丸森ら周辺五ヶ村を隠居領としていたが、永禄8年(1565年)に伊達稙宗が没すると、伊達家ではなく娘婿であった相馬義胤が所領とし、家臣の門間大和が城主となった。
所領を奪われる形となった伊達氏は天正4年(1576年)からこの辺り一帯で相馬氏と戦い、天正12年(1584年)に伊達氏が奪い返すまで激しく争われた。
伊達氏の所領となると黒木宗元、さらに高野壱岐守兼高・弥吉を経て慶長6年(1601年)大条薩摩守実頼が城主となった。しかし、実頼は鳥屋館を築いて移り、丸山城は廃城となった。
丸山城は阿武隈川南岸の東西に伸びた独立丘陵に築かれており、阿武隈川に支流が東を除く三方を巡る要害の地に築かれている。
本丸は西端にあり愛宕社が祀られ伊達稙宗の墓碑が建っている。東側に幅広の空堀があり、土橋が架かる。丘陵の東側は畑や無線中継施設が建っているが、曲輪らしき地形を残している。
丸森町の中心部の東に見える丘陵が丸山館で、東側の道路から山上に登る車道が付いている。山上にある無線中継施設の所に車を置くスペースがあり、そこから歩いて主郭まで行くことができる。
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