築城年代は定かではない。永禄9年(1566年)以前は小斎平太兵衛の居城であったが相馬氏に攻めれ落城した。
天正年間(1573年〜1592年)になると相馬氏と伊達氏によって争われ、天正10年(1582年)から天正12年(1584年)頃に柴小屋館は伊達氏の所領となった。その後は相馬の家臣で伊達氏に寝返った佐藤為信が城主となった。この佐藤為信は佐藤好信の嫡男で、源頼朝に仕えた佐藤忠信・継信兄弟の子孫である。伊達氏に仕えた佐藤氏は江戸時代になってからも柴小屋館の南麓に居館を構え、明治まで代々続いた。
柴小屋館から放った矢が矢ノ目館まで届いたという伝承が残るという。
柴小屋館は小斎小学校の北東にあり、東西に長く伸びた尾根の頂部に築かれている。
東西に長く伸びた尾根上を南北の空堀で区画して東西に曲輪を連ねる縄張りで、主郭と思われる曲輪には現在八重垣神社が鎮座しており、柴小屋館の石碑が建っている。
参道は主郭東の空堀付近から南東側へ登るように付いているが、本来の虎口は南西側にある。空堀を挟んだ西側の曲輪が二郭で、西端に土塁が付く。空堀を挟んだ西側は小郭で、周囲に土塁が巡り、西側から南北両側へ竪堀と堀切へ回り込む通路が付いている。この小郭はおそらく二郭と木橋でつながり馬出の役割を果たしていたものと思われる。
更に西に小郭が付いているが、その先は自然地形になっている。主郭から東西に連なる尾根上の曲輪に対して南側の山腹に腰曲輪があり、主郭部は特に西側に土塁がついて虎口のようになっている。
南麓の佐藤家の屋敷は八重垣神社への参道の西側にある果樹園の所にあったが、遺構はない。
小斎小学校を目指す。小学校の北側の道路を東へ走っていくと集会所があり、少し東へ行くと八重垣神社と佐藤家旧屋敷の標識があって登山道入口がある。登山道入口に駐車場がある。
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