元亀3年(1572年)坂元三河俊久によって築かれたと云われる。 坂元氏は亘理氏の家臣で、三河の父坂元大膳が元亀2年(1571年)に愛宕山城で相馬氏に攻められ討死したことから、父が討死した不吉な城であることや用水に不便であったことなどを理由とし、坂元城を築いて移ったという。
天正17年(1589年)伊達政宗が相馬領の宇多郡駒ヶ峰城を攻めたとき、坂元三河は亘理元宗に従っていたが討死した。
天正19年(1591年)亘理元宗は遠田郡涌谷に転封となり、坂元氏もまたこれに従って涌谷に移った。その子孫が郷学月将館督学を務めた坂元玄岡という。
坂元城は江戸時代に坂元要害として存続し、坂元氏の後は後藤孫兵衛信康が二千五百石、慶長9年(1604年)には黒木肥前宗元、さらに津田豊前景康と続き、元和2年(1616年)大條左衛門宗綱が二千石で坂元へ入部して以降、大條氏(おおえだ)が代々続いて明治に至る。大條氏は伊達郡大枝発祥で伊達宗遠の三男宗行から始まる。
坂元城は現在の坂元神社・坂元小学校一帯に築かれていた。
本丸が坂元神社のある小高い丘陵で、これを取り巻くように二の丸、北に三の丸があり、東側には馬出しも備えていた。
現在坂元神社の境内となっている本丸は西背後に土塁と内堀の残欠、さらに西下に大きな空堀が残る。小学校の北側に公園となっている部分があり、ここが三の丸で土塁と空堀、大手門が現存している。
大手門(現存 城門)
坂元神社または小学校北の公園に駐車できる
最寄り駅(直線距離)