築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1570年)に田手宗光によって築かれたと云われる。田手氏は伊達崎城主の伊達氏一族で伊達朝宗の六男実綱を祖とする。はじめ伊達崎氏を称し、後に田手氏となり江戸時代は伊達一門となっている。
永禄9年(1566年)隣接する丸森・金山・小斎一帯が相馬氏に侵略されると、田手宗光は伊達氏を離反して相馬氏に従った。天正4年(1576年)以降、伊達氏と相馬氏の争いは激しくなり、天正12年(1584年)に伊達氏が再び支配するようになると、宗光の子で父に従わず伊達氏に従っていた田手宗時が角田城主となった。
田手宗時が討死した後には伊達成実が城主となったが、文禄4年(1595年)成実は突如伊達家を出奔し、角田城は政宗の命を受けた屋代勘解由兵衛景頼によって接収され、これに抵抗した成実の家臣羽田右馬助実景ら三十余名が討死した。
その後しばらく城主が不在となっていたが、慶長3年(1598年)石川昭光が角田城主となり、一国一城令の後も角田要害として石川氏の居城として代々続き明治に至る。
角田城は現在の角田高校、角田中学校のある微高地に築かれていた。 高校の入口に設置されている案内板に現在の地形と堀跡を重ねた図面が描かれており、入口脇の水路がそのまま堀の名残のようである。
近くの角田市郷土資料館は旧氏家邸で、その表門は角田城からの移築と伝えられる。残念ながら震災の影響なのか閉館中であった。また、石川氏の菩提寺である長泉寺にも臥牛門が移築され近年まで現存していたのだが、本堂の工事の際に解体され現時点では見ることができなかった。
城門(移築 城門)
臥牛門(移築 城門)