築城年代は定かではない。正平年間(1346年〜1370年)に北畠顕家に仕えた懸田氏が城主であったと云われる。
応永7年(1400年)に懸田宗顕が藤田貞政と一揆契状を結んでいるのが、懸田氏が史料に登場する初見という。
天文年間(1532年〜1555年)に伊達稙宗と伊達晴宗による内訌である天文の乱が起こり、懸田俊宗は伊達稙宗に味方した。このとき晴宗方の岩城重が懸田城に攻め寄せたがこれを撃退している。一時は晴宗方を圧倒したが、勢力を盛り返した晴宗に押され、天文17年(1548年)将軍足利義輝の和睦仲裁により和睦となった。このとき懸田城は桑折西山城とともに廃城とすることが条件となった。これを不服とした懸田俊宗・義宗父子は天文22年(1553年)に挙兵したが、晴宗に鎮圧されて懸田氏は滅亡した。
懸田城は標高225.2mの古城山に築かれている。現在は公園として整備されている。
主郭は山頂にあり広大な削平地が拡がっている。東下には金華山神社が祀られた腰曲輪、西下には二郭がある。この辺りが主郭部である。南西麓から登っていく登山道脇には随所に削平地が並んでおり、山全体に遺構は点在しているようである。
霊山総合福祉センターの北側に駐車場(地図)があり、そこから山頂まで遊歩道が付いている。
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