築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)に奥州探題宇都宮氏広によって築かれたと云われる。
文明3年(1471年)南朝方であった宇都宮氏は北朝方の斯波氏・石橋氏に敗れ、四本松城主石橋氏の家臣大河内修理が入り宮森城となった。
天正年間(1573年〜1592年)になると主家石橋氏を滅亡させた大内定綱の所領となったが、伊達政宗の侵攻によって大内定綱は二本松を経て会津の蘆名のもとへと去っていた。
天正13年(1585年)宮森城に在城していた伊達輝宗のもとを訪れた二本松城主畠山義継は輝宗を拉致する事件を起こし、伊達勢によって畠山義継とともに伊達輝宗も非業の死を遂げた。
宮森城は小浜川に東岸の比高60m程の丘陵の上に築かれており、現在は公園として整備されている。
山頂の広い平坦面が主郭で「宮森家祖大内氏城趾」の石碑が建っている。東側山麓に向かって段々遺構があるが、現状は畑である。東麓には「御前清水」と呼ばれる井戸があり、北側山麓に永禄12年に自刃した大河内備中の腹切石がある。
登り口は東側で城門を模した門があり、そこから山腹の駐車場まで車で登ることができる。
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