築城年代は定かではないが田村憲顕によって築かれたと云われる。 田村憲顕は田村義顕の二男で船引に封じたという。
天正14年(1586年)田村清顕が没すると跡目を巡る争いとなった。田村清顕の正室は相馬顕胤の娘、一人娘は伊達政宗の正室となった愛姫であったが、嫡子がいなかったため家中は伊達派と相馬派に分かれた。天正16年(1588年)相馬義胤が三春城入城計画に失敗すると船引城へ籠もった。伊達政宗は船引城を攻撃するべく兵を送ったが相馬氏は城を脱して引き上げた。郡山合戦に勝利して三春城に入った伊達政宗は清顕後室を船引城に隠居させ、清顕の甥の田村孫七郎顕季を宗顕と名乗らせ田村家の当主に据えた。これにより田村家は伊達家に組み込まれていった。
船引城は大根川の南岸、北東に向かって伸びた尾根の先端に築かれており、現在は館山公園として整備されている。
主郭は南端最高所で背後に高土塁が残り秋葉神社が祀られている。この主郭から北と東へ伸びた尾根の曲輪を展開しているのだが、公園化による地形変更が大きく旧状がよく分からなくなっている。西背後の尾根は大堀切で遮断していたようで、ここも墓地や畑になっているが、堀跡名残で窪んだ畑で確認することができる。
大方病院の南側に中町公民館(地図)があり、ここに駐車できる。館山公園はそこから西へ進んだ所から階段が付いている。
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