文永2年(1266年)関実忠によって築かれた亀山古城がその始まりである。
近世の亀山城が築かれたのは天正18年(1590年)に二万二千石で亀山城主となった岡本下野守宗憲のときで、このときに天守があげられたと云われる。この天守は寛永9年(1632年)頃に丹波亀山城の天守破却を命ぜられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を破却してしまったと伝えられている。宗憲は関ヶ原合戦で西軍に属して桑名城に籠城したため改易となった。以降、多くの大名が入れ替わっている。
和暦(西暦) | 事象 |
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慶長5年(1600年) | 美濃国多良より関一政が三万石で入封。 |
慶長15年(1600年) | 関一政は伯耆国黒坂へ転封。 三河国作手より松平忠明が五万石で入封。 |
元和元年(1615年) | 松平忠明は摂津国大坂へ転封。 |
元和5年(1619年) | 三河国挙母より三宅康信が一万石で入封。 |
元和6年(1620年) | 二千石を加増され一万二千石。 |
寛永13年(1636年) | 三宅康盛のとき三河国挙母へ転封。 三河国西尾より本多俊次が五万石で入封。 |
慶安4年(1651年) | 本多俊次は近江国膳所へ転封。 近江国膳所より石川憲之が五万石で入封。 |
寛文9年(1669年) | 石川憲之は山城国淀へ転封。 下総国関宿より板倉重常が五万石で入封。 |
宝永7年(1710年) | 板倉重治は志摩国鳥羽へ転封。 志摩国鳥羽より松平乗邑が六万石で入封。 |
享保2年(1717年) | 松平乗邑は山城国淀へ転封。 志摩国鳥羽より板倉重治が五万石で入封。 |
延享元年(1744年) | 板倉勝澄は備中国松山へ転封。 備中国松山より石川総慶が六万石で入封。以降石川氏が代々続いて明治に至る。 |
亀山城は現在の亀山市役所一帯に築かれていた。建物としては天守台に移築された多聞櫓があるのみであるが、町を歩けば大手門跡や太鼓門跡など色々な標柱が建っており、城の形はある程度把握できる。
本丸は市役所の西にある亀山神社、二の丸が市役所でその東三の丸。本丸の西のテニスコートの辺りが西出丸。そして南西麓にある亀山中学校の辺りが西の丸である。
本丸の南東隅に多聞櫓が残っているが、ここが本来天守があった場所で多聞が移築現存している。二の丸は亀山西小学校や市役所のある場所で、小学校の北側に帯曲輪と埋門が小公園として復元されている。東三の丸の東端にあったのが大手門で、ちょうど江ヶ室交番前の交差点付近となる。
南にある「池の側」や北の「亀山公園 しょうぶ園」や「公園池」は亀山城の外堀である。また西の丸では発掘調査で見つかった外堀が公園として整備されている。
多聞櫓(現存 櫓)
本多俊次のときに天守台に建てられた。 明治以降に下見板など改変されていたものを近年復元した。二の丸御殿の玄関(移築 その他)
亀山神社の西側に亀山公園の無料駐車場がある。亀山市歴史博物館には亀山城を含む城下町の模型が展示されている。
最寄り駅(直線距離)