応永31年(1424年)奥平貞俊によって築かれたと云われる。 上野国甘楽郡奥平郷と云われる奥平氏が三河国作手に移り、はじめ川尻城を居城としたが、応永31年(1424年)に亀山城を築いて居城とした。
奥平氏は以後、貞久・貞昌・貞勝・貞能と続く。元亀年間(1570年〜1573年)には武田氏に従っていたが、天正元年(1573年)奥平貞能・貞昌(後の信昌)父子は武田氏を離反して徳川氏に帰属した。 家康は奥平貞昌を長篠城主として武田氏との最前線に配置した。
天正3年(1575年)武田勝頼は大軍を率いて三河へ侵攻し長篠城を包囲した。奥平貞昌はこの猛攻を凌ぎ切り、設楽原での織田・徳川連合軍の大勝をよびこんだ。この功により、織田信長より「信」の字を賜り信昌と改名し、徳川家康の長女亀姫を娶った。天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に伴い、奥平氏も上野国甘楽郡宮崎へ3万石で移った。
関ヶ原合戦後、上野国長根で七千石を領していた松平忠明が作手藩一万七千石を領して亀山城を居城とした。松平忠明は奥平信昌の四男で、兄家治が早世したために家督を継いでいた。慶長15年(1610年)には伊勢国亀山へ五万石で転封となり廃城となった。
亀山城は作手清岳の平地に突き出した低丘陵に築かれている。現在は公園としてよく整備されている。
主郭は山頂にあって東西に長い楕円形で周囲に土塁が巡る。虎口は東西に平入り虎口が開く。東の虎口を出ると二郭があり、北側に桝形状の虎口が開いている。 西の虎口は横堀を土橋で抜け小郭の間を抜けていく。
主郭の南側には深い横堀が巡っており、北西側には深い竪堀が付いている。
国道301号線沿いにある道の駅「つくで手作り村」の東側にある丘陵が城山。道の駅からも歩けるが、南東側にも専用の駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)