築城年代は定かではないが応永年間に石橋弾正久勝によって築かれたと云われる。 石橋久勝は奥平氏二代奥平貞久の二男で、この地に屋敷を構え石橋氏を称したという。
天文6年(1537年)石橋弾正繁昌は主君への謀反が露呈し、奥平貞勝の命を受けた土佐定雄によって攻められ郎党四十人余が討ち死にした。
石橋城は現在の慈昌院の境内に築かれていた。周囲より一段高い地形に築かれた方形居館であったようで、現在でも境内の北から東側にかけて土塁と堀が残っている。
道の駅「つくで手作り村」の前にある慈昌院境内が城跡。 道の駅にはこの辺りにある城跡が案内された「歴史の小径 道中案内図」がある。
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