正長元年(1428年)菅沼信濃守定直によって築かれたと云われる。
菅沼氏の発祥については詳らかではないが、菅沼城aの菅沼氏を滅ぼした土岐氏の一族である土岐定直が、菅沼氏の所領を継いで土岐菅沼氏となったと云われている。
正長元年(1428年)小倉宮聖承(小倉宮)は皇位継承に不満を抱き、伊勢国司北畠満雅を頼って嵯峨より伊勢に落ちると、北畠満雅は鎌倉公方足利持氏とともに挙兵した。菅沼城主菅沼信濃守俊治も北畠満雅の挙兵に呼応して戦ったが敗れ、菅沼城へと引き上げた。室町将軍足利義教は土岐興安らに命じて俊治を討伐させ、その恩賞として土岐興安の一族である土岐定直に菅沼の所領を与えた。
菅沼城bは菅沼川と見返川に挟まれた東へ伸びた丘陵に築かれている。
現在は墓地などになっており、遺構の大半は失われているが墓地の手前に、北側部分の堀と土塁が残っている。近くの菅沼山楽法寺は菅沼氏縁の曹洞宗の寺院だという。
菅守小学校横の県道35を北上し県道337号線に入る。少し西へ行くと津島神社の鳥居が見えるので南に入り丘の上に登る。その先にあるお寺が楽法寺で振り返って見える無線中継施設のある山が城山。墓地まで道が付いている。