天文6年(1539年)に奥平出雲守勝次によって築かれたと云われる。 勝次の家系は三河に移転した初代奥平貞俊の次男奥平出雲守貞盛が和田を領して和田奥平氏となったことに始まる。
初代貞守の後は岩波城主の奥平出雲守貞寄、そして和田城を築いた奥平出雲守勝次となる。
和田城は作手の入口にあたり保永の地にあり、南の山塊から舌状に伸びた台地に築かれていた。
現在城山は畑となって開墾されているが、山容ははっきりと見え、数段の平地が拡がっている。明確な遺構は南背後の堀と土塁で農道によって分断された山側に残されている。
この和田地区には初代奥平出雲守貞盛の墓がある。また、二代奥平出雲守貞寄の墓は岩波城の近くにあるという。