永正5年(1508年)菅沼定則によって築かれたと云われるが定かではない。
田峯菅沼氏の定忠の三男定則が富永荘の地頭富永直郷の後継となり、野田菅沼氏の祖となった。
天正元年(1573年)武田信玄が東三河に侵攻、野田城に攻め寄せたが思うように落とせず、金山衆を用いて井戸水を抜き落城させたという。
武田信玄の死因の一つとして、村松芳休の笛の音に聞き惚れた信玄が、本陣を抜け出して城に近付いた所を鳥居三左衛門の鉄砲に討たれ、重傷を負って甲斐国に引き上げる途中で亡くなったと云う伝説は、この野田城合戦でのことである。
野田城は南東に向かって半島状に伸びた台地の上に築かれていた。現在は本丸が公園として整備されている。
野田城は半島状に突き出した台地の南端に本丸を置き、北に向かって二の丸、三の丸を配していた。本丸と二の丸を区画する空堀は大きく、土橋が架かっている。本丸はこの土橋に対して北東側が張り出しており横矢を掛ける構造である。本丸は空堀に面した北と南に分厚い土塁があり、南側にも空堀がある。
二の丸、三の丸といった辺りは整備されておらず、辛うじて土塁が確認できる程度である。
本丸の西側に「武田信玄を狙撃した場所」と伝えられる所があり、その対岸にあたる法性寺の上の所に「武田信玄が狙撃された場所」と伝える場所があり案内板がある。法性寺の山門は野田城の城門を移築したものだと伝えられる。
城門(移築 城門)