築城年代は定かではないが奥平氏によって築かれたと云われる。 奥平氏は赤松則景を祖と称し、上野国甘楽郡奥平郷を発祥とする。
奥平氏は初代の氏行から吉行、継定、高定、満定、定政、家定と七代続き、八代貞俊が三河国作手に移った。その後も一族がこの地に残り、永禄6年(1563年)に武田信玄の侵攻により落城した。
三河国作手に移った奥平氏は十三代奥平信昌のとき長篠合戦で戦功を挙げ、天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に伴い、上野国甘楽郡宮崎へ3万石を領した。江戸時代も大名として存続し、最終的には豊前国中津十万石の大名として明治を迎えた。
奥平城は北を串田川、南に深い沢が入って東へ伸びた舌状の丘陵に築かれていた。
東の尾根先に入口があり石碑と案内板が建っているのだが、ここから登ると東端部が畑として利用されているのがわかる。その西側が「城」と呼ばれる所であるが、一面竹藪で広く平坦ではあるものの、これといって見るべきものがない。かつては搦め手(西側)に食い違いの土塁があったというが、これも残っていないようである。
県道200号線を北西に進み岩平小学校を過ぎた所で北へ曲がり県道171号線に入る。曲がってすぐに緩やかなカーブ描いて左に曲がるが、このとき左奥に入口の石碑が見える。
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