永正5年(1508年)菅沼元成によって築かれた。 元成は長篠城を築き岩古屋城から移って長篠菅沼氏と呼ばれた。
はじめ今川氏親に属していたが、桶狭間合戦後は松平氏に属した。元亀2年(1571年)には田峯菅沼氏等の勧めもあって武田氏に属したが、天正元年(1573年)徳川家康によって長篠城は落ち、菅沼正貞は信濃国へ脱した。
天正3年(1575年)武田勝頼が大軍を率いて長篠城へ侵攻、この時の城将奥平信昌は城を固めて良く守り、鳥居強右衛門を使者に岡崎城の徳川家康に走られた。鳥居強右衛門は岡崎城へたどり着き援軍の要請を終えると、援軍きたるの報を持って長篠城へ帰城するが、その途中で武田方に捕まってしまう。 勝頼は強右衛門に援軍が来ないから開城するように伝えるように促すと強右衛門は了承、しかし強右衛門は援軍がくると叫んで城兵を勇気づけた。これによって強右衛門は磔に処せられた。
織田・徳川連合軍が援軍として到着すると、設楽ヶ原へと戦場は移り武田方は大敗して敗走した。
天正4年(1576年)奥平信昌は新城城を築いて移り長篠城は廃城となった。
長篠城は国指定史跡で長篠合戦の舞台として有名であるが、城の遺構は本丸部分を除いて民家などが建ち、あまり残っていない。
城は豊川に宇連川が合流する地点にあり、南と東は川を天然の濠として利用している。本丸は高土塁が一部に残り、北に虎口を開く。西には弾正曲輪があり、民家が建っているが、その周辺に石積された土塁と堀が残る。主郭の東には野牛曲輪があり、殿井戸が残っている。
本丸横に駐車場がある。
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