築城年代は定かではないが正平年間(1346年〜1370年)に関盛忠の五男峯政実によって築かれたと云われる。
峯氏は政実以降六代続いたが、天正2年(1574年)峯八郎四郎盛祐が伊勢長島の合戦で討死すると弟与八郎が幼小であったため、岡本下野守が峯城主となった。
天正11年(1583年)滝川一益の家臣滝川儀太夫益重によって攻められ峯城は落城するが、羽柴秀吉が大軍を率いて峯城を包囲し、数ヶ月の籠城の末に兵糧が尽きて儀大夫は開城した。この戦いの後、織田信雄の家臣佐久間正勝が入城した。
天正12年(1584年)秀吉と信雄が対立すると、小牧・長久手合戦の前哨戦として秀吉は蒲生氏郷、関長門守などに命じて峯城を攻めさせ、わずか数日で落城した。
峯城は八島川、安楽川が合流する地点の北西にある南へ伸びた台地の先端に築かれている。現在は県指定史跡となって見学路が設けられている。
主郭は標高80m程の所にあり、大きく南北に長い方形の形で周囲に高土塁が巡っている。曲輪の中は大半がド藪になっていて、ほぼ土塁の上しか歩くことができない。この土塁の西側中央に天守台と伝えられる幅広の櫓台がある。虎口は北東の大きく窪んだ所のようである。
この主郭から南に二郭、主郭の西下の帯曲輪、北へ行くと土塁や虎口、屋敷跡がある。道標に従って北端から東へ伸びた尾根を進むと枡形の虎口があり、その先を降りて行くと井戸を経て墓地に出てくることができる。
柴崎公民館の駐車場が利用できるようだが、縄張図入りの案内板は南の入口にある。この南の入口近くに一軒の民家があり、そこへ至る道の途中に駐められるスペースがある。
城への入口は案内板のある南口(地図)と、墓地から入る北口(地図)があり、道順は印がある。
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