築城年代は定かではないが関一政によって築かれた多羅城がその前身である。 関一政は関盛信の二男で蒲生氏郷の与力として各地を転戦していたが、慶長5年(1600年)美濃国多良三万石の城主となり、信濃国飯山より移った。 関ヶ原合戦後、一政は父盛信が領した旧領の伊勢国亀山へ転封となった。
高木氏は源満仲を祖とする清和源氏で大和から伊勢に出て、斎藤道三に仕えて駒野城主となった。その後、織田信長、織田信孝に仕え今尾城主となったが信孝没後に駒野城へ戻った。小牧長久手合戦では織田信雄に従っていたが、天正18年(1590年)織田信雄が改易となると関東へ移った。その後、徳川家康によって貞利(貞久の二男で西高木家祖)、貞友(貞久の三男で東高木家祖)、貞家(貞久の長男貞家の子で北高木家祖)がそれぞれ召し出され関東に所領を与えられた。
江戸時代の高木家はこの多良に三家あり、いずれも大名格の交替寄合の旗本として江戸時代を過ごしたが、三家を区別する為に、陣屋の位置により西高木家、東高木家、北高木家となっている。 高木家は水奉行と呼ばれ、木曽川水系などの治水や巡見などが命ぜられている。宝暦治水と呼ばれる、宝永4年(1754年)から四年の歳月をかけて行われた木曽川流域の治水工事は薩摩藩主体で行われた難工事であったが、この治水にも高木氏は参加している。
慶長6年(1601年)高木権右衛門貞利が千石を与えられ、西高木家の祖となった。西高木家は貞利の後、貞盛のときに二千三百石に加増され、寛文8年(1668年)三代貞勝以降は三家が隔年で参勤交代するようになった。以後代々高木氏が続き、十代貞広のとき明治に至る。
西高木陣屋は平田川西岸の台地の上に築かれている。上石津郷土資料館の北側にあるのが西高木家陣屋で、東下に東高木家陣屋、北下に北高木家陣屋があった。
西高木陣屋は旗本陣屋としてはきわめて保存状態が良い。東下を通る道が旧伊勢街道で、そこから埋門の石垣を経て西高木家陣屋の高石垣が残っている。
表門と呼ばれる長屋門は唯一の現存建物で、嘉永5年の棟札が確認されている。この門は本来ここにあったものではなく、明治以降に下屋敷から上屋敷へ曳き家されたことが確認されている。 現在敷地内に残る屋敷は明治29年の棟札があり、維新後の建物であることは確実であるが、古材が転用されている可能性がある。 現在は解体保存されているが土蔵が一基残っている。
表門(移築 長屋門)
上石津郷土資料館に展示がある。ここの駐車場を利用して各陣屋を散策することができる。
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