築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)に富島氏によって築かれたと云われる。
元亀元年(1570年)織田信長と盟友関係にあった近江国小谷城主浅井長政は、越前の朝倉義景を討伐に向かった織田信長の背後を襲い同盟関係は断たれた。 この結果、長政は美濃国境に砦を築き、苅安砦の樋口直房に松尾山を占拠させ砦を築いた。 しかし、直房は竹中半兵衛の調略により信長に降り、その後は信長の家臣不破光治が城を守った。
天正3年(1575年)不破光治は越前平定で功を挙げ、前田利家・佐々成政とともに府中三人衆の一人として越前国龍門寺城主となった。
その後、役目を終えて廃城となっていたが、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で大垣城主伊藤長門守盛正は石田三成の要請を受けて大垣城を提供するとともに、松尾山城を修築して布陣した。しかし、盛正は小早川秀秋によって追い払われ、松尾山には小早川秀秋が布陣した。小早川秀秋は西軍として松尾山に陣を布いたが、すでに東軍に内通しており、奥平貞治が監視役として付いていた。
関ヶ原合戦が始まったもののいっこうに動こうとしない小早川秀秋に、業を煮やした徳川家康は鉄砲隊に松尾山に向けて発砲させ、これを機に東軍に寝返った小早川秀秋は松尾山を一気に降り大谷吉継の陣へと雪崩れ込んだ。しかし、吉継は小早川秀秋の内通を薄々感じており、直属の兵六百で小早川勢を押し戻した。この戦いでは監視役であった奥平貞治も深手を負い討死している。やがて脇坂安治らの軍勢も東軍に寝返り大谷吉継の陣へ雪崩れ込むと、吉継はこれを支えることができず総崩れとなり、宇喜多秀家の陣も崩れ東軍の勝利となった。合戦後、小早川秀秋は備前国岡山五十五万石の大名となった。
松尾山城は関ヶ原を見下ろす標高293.1mの山頂に築かれている。
松尾山城は関ヶ原合戦で小早川秀秋が陣を布いたことで有名であるが、他の陣跡と比べ整然と整備された城郭遺構が残されている。各時代において改修されたためか、山頂を中心に北東、東、南、南西の各尾根に曲輪を配している。
主郭は山頂にあって南北にやや長い曲輪で周囲に土塁が巡る。この主郭の南東隅に内桝形の虎口が残る。
南尾根はトイレなどがあってやや破壊されているものの、折れを伴う土塁が付い曲輪で、土橋状の地形を経て南端から平井方面へ通路が伸びている。
東尾根も土塁がついて先端へ長く伸びた曲輪である。
主郭の西は谷を隔てて南北に連なる曲輪があり、谷間の北端は門跡のような地形が残り、北端は土塁が付いて主郭の東下を犬走となり、北東の松尾方面へと続く。この道が本来松尾側から城内に入るルートであったと思われる。西尾根の北の曲輪は北と南端に土塁が付き、東側に坂虎口が付いている。南は谷間に堀が入っている。南の曲輪は削平が不十分で中央に塚状の土盛りが残り 、南端は互い違いに竪堀を設けた遺構が残る。
北東尾根の曲輪は東へ向かって土塁の付いた曲輪となり、内部は段が付いて伸びていく。途中一条の堀切があり、さらに削平地が伸びているが先端には堀はなく切岸で終わっている。
登山口は北の松尾側と南の平井側にある。北の松尾側は入口に駐車場があり、そこから比較的なだらかな遊歩道が山頂までついている。(登山口の地図)
南の平井側は公民館前に駐車可能で、作業林道を進み途中から登山道となる。北側よりこちらからのほうが楽に登る事ができる。
最寄り駅(直線距離)