天正元年(1573年)富田長繁によって築かれたと云われる。もともと龍門寺があった所と云われる。
天正元年(1573年)織田信長によって朝倉氏が滅ぼされると、朝倉氏の家臣であった富田長繁はいち早く信長に降って、府中を領し龍門寺城を居城とした。天正2年(1574年)一向一揆が起こるとそれに加担して確執のあった守護代桂田長俊(前波吉継)を敗り、更に魚住景固父子を謀殺して越前一国を支配した。長繁は織田信長に越前守護の朱印状を要求するなど地位を固めようとしたが悪政を施いたため、天正3年(1575年)一向一揆の襲撃を受け、この戦いの最中に無謀な戦略を取り続けた長繁は家臣の小林三郎次郎吉隆に裏切られ討死にした。
天正3年(1575年)越前を再び平定した織田信長は北庄城に柴田勝家を置くとともに、越前府中に前田利家・佐々成政・不破光治を柴田勝家の目付として配置した。 府中城には前田利家、小丸城には佐々成政、龍門寺城に不破光治が入り合わせて十万石を領した。
天正8年(1580年)不破光治は没し、不破直光が家督を相続したが、賤ヶ岳合戦後は前田利家に仕えた。
現在の龍門寺一帯が龍門寺城跡である。天正16年(1588年)には再び龍門寺が再建されて現在まで続いているが、城域はもっと広く本町一帯であったと考えられている。
明瞭な遺構は残っていないが寺の南側にある墓地が堀跡の名残として周囲より一段低い位置になっている。