慶長5年(1600年)関ヶ原合戦において西軍に属した毛利秀元が陣を構えた。
毛利秀元は毛利元就の四男穂井田元清の長男で、実子のいなかった毛利輝元の養子となり家督を継ぐ予定であったが、文禄4年(1595年)に輝元の嫡男秀就が誕生したことにより別家を興している。
関ヶ原合戦では大坂城に入城していた毛利輝元の名代として南宮山に陣を構えていたが、麓に陣を構えた吉川広家が東軍に内通して動かず、秀元も合戦を傍観していた。このとき背後に陣を構えていた長宗我部盛親の出陣要請に対し、「今、兵に弁当を食べさせている」と答えたことが、「宰相殿の空弁当」と呼ばれて後世に揶揄されている。松尾山に陣を構えた小早川秀秋が東軍に寝返り、関ヶ原合戦が東軍有利となったことは事実であるが、この南宮山に陣を構えて毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊らの軍勢が合戦に参加していれば、東軍は後方を遮断される形となり、先鋒隊は袋のネズミとなることから、この毛利秀元が動かなかったことが関ヶ原西軍敗因の最大要素のように思える。
合戦後、毛利輝元に大坂城に籠もって徹底抗戦を主張したが受け入れられず、防長二カ国に減封となった毛利家のなかで、長府六万石の大名となった。
毛利秀元陣は南宮神社の南に聳える標高419.2mの南宮山の東の尾根、標高404mの山頂に築かれている。秀元の兵力は一万五千と云われるが、主郭部分は極めて狭く、多くて数十人といった規模である。
主郭は標高404mの山頂部で、石碑と案内板が設置されている。大垣方面は木が伐採されて眺望が開けているものの、関ヶ原方面は見えない。おそらく南宮山山頂などもあることから、木がなくても関ヶ原合戦場は見えない位置にあると思われる。
遺構は山頂を中心に西と北東の尾根に削平地が広がる。東西150mに満たない規模で、西は数段の削平地に先端は土塁囲みで、やや北へ張り出し虎口の外側に堀切を設けている。 北東尾根は山頂部から続く土塁が東端を北へ折れを伴って北へ伸び、先端に堀切を設けている。南尾根は堀切はないようだが、南東尾根に一条堀切がある。
主郭の北の峰にも二段の曲輪があり、現在は下を遊歩道が通っているが、この曲輪部分に通路状の地形が残っている。
南宮神社からの登山道沿い、標高280mから330m付近に削平地があり、切岸や石積された部分がある。ただこれは陣跡というわけではなく、宗教施設などがあったと思われるが、関ヶ原合戦のときには兵が駐屯していたとも考えられる。
北麓にある南宮神社から良く整備された登山道が付いている。陣跡は山頂に至る手前の部分にある。
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