慶長5年(1600年)関ヶ原合戦において東軍に属した松平忠吉・井伊直政が陣を構えた。
松平忠吉は徳川家康の四男で武蔵国忍城十万石の大名である。妻の父が井伊直政で舅にあたる。忠吉は関ヶ原合戦が初陣で、井伊直政の後見のもと先陣の福島正則を出し抜いて宇喜多秀家隊に発砲し、初陣を飾った。関ヶ原から敵中突破で脱出を計ろうとした島津義弘の軍勢を追撃し、島津豊久などを討ち取ったが深追いして負傷した。戦後、尾張国清洲五十二万石に加増されたが、慶長12年(1607年)この傷がもとで江戸で没したと伝えられる。
井伊直政は上野国高崎城十二万石の大名で、娘婿の松平忠吉を後見して戦功を挙げた。 井伊直政もまた、敵中突破で退却する島津義弘を深追いし傷を負っている。戦後、石田三成の旧領近江国佐和山十八万石に加封されたが、慶長7年(1602年)この傷がもとで没した。
松平忠吉・井伊直政陣は関ヶ原駅の西、関ヶ原町役場へ向かう途中にある。関ヶ原合戦後、戦死した兵を埋めた東首塚の横に石碑が建っている。