慶長5年(1600年)関ヶ原合戦において西軍に属した大谷吉継が陣を構えた。
大谷吉継は越前敦賀城主で、石田三成に挙兵をとどまるよう再三説得したがついに叶わず、東軍の加賀の前田利長を牽制するなど尽力している。松尾山に布陣した小早川秀秋が東軍に内通していると疑い、その押さえとして松尾山の北麓に脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の四隊を置いて備えていたという。
東軍に寝返った松尾山の小早川秀秋は大谷吉継の陣を目掛けてなだれ込んできた。吉継は一時は直属六百の兵と戸田勝成(越前国安居城主)や平塚為広(美濃国垂井城主)の兵でこれを押し返したが、脇坂・朽木・小川・赤座の四隊のまさかの裏切りにより測面を突かれ、戸田勝成・平塚為広は討死、大谷隊も壊滅し、吉継は自刃して果てた。
大谷吉継陣は若宮八幡神社の少し上の辺りに石碑が建てられており、付近には土塁と堀が残されている。
そこから更に北方の山の中に入っていった所に、大谷吉継とその首を埋めたとされる側近の湯浅五助の墓が残っており、東の道路沿いには平塚為広の碑がある。