築城年代は定かではないが永正年間(1504年〜1521年)頃に京極高清によって築かれたと云われる。
京極氏は佐々木氏の分家で京の京極高辻に屋敷を構えたことから京極を称し、宗家である佐々木六角と区別して佐々木京極氏とも呼ばれている。 京極氏は京極導誉のとき足利尊氏に従って力を付け、室町時代には四職家の一つとなり、北近江の守護職や出雲守護職、飛騨、隠岐などの守護職にも任ぜられた。
その後、京極氏の内訌などが続いたが永正2年(1505年)京極高清は正経の子京極材宗と和睦が成った。この後に高清の居城として上平寺城が築かれたと云われる。
大永3年(1523年)再び家督を巡る争いが起こり、浅見貞則を旗頭とする国人衆らによって上平寺城は落城し、京極高清らは尾張へ逃れた。その後、近江へ戻った高清であったが、小谷城主の浅井氏が台頭し、京極高清・高広父子は小谷城へ移り住むなど京極氏の居城としての上平寺城の役目は終わっていった。
元亀元年(1570年)織田信長が越前の朝倉氏を攻めたとき、浅井長政は背後から挙兵して織田軍と戦ったが、信長は九死に一生を得て岐阜へ戻った。信長を逃した長政は織田氏に備えるため、刈安城(上平寺城)と丈比城を改修して備えたが、鎌刃城主の堀秀村らが織田方に寝返ったため、この防衛戦も役に立たなかった。
上平寺城は伊吹山南山腹にある標高666m程の峰に築かれている。谷を挟んで西側には弥高寺(城)、南山麓には平時の居館である京極氏上平館がある。
上平寺城は北端最高所の主郭、南の二郭、南端の三郭と大きく三つの曲輪群から成る。堀切や虎口、畝状竪堀群などを備えるが、中央の通路を挟んで両側に曲輪が配置された縄張りは、麓にある居館部や寺の坊の造りにも類似する。
本丸は最高所にあり、周囲に土塁が巡り、西と南東に虎口が開口する。北へ伸びた尾根には土橋が架かる大堀切で遮断されており、この先の道は伊吹山や弥高寺へと続く。
麓にある上平寺集会所(地図)に案内板と駐車場がある。
この場所が京極氏上平館で、一番上の神社の脇から伊吹山への登山道入口があり、その途中に上平寺城がある。
その先からさらに弥高寺へと行くことができる。弥高寺から下山すると悉地院に下山することとなり、集会所からやや離れているので、弥高寺から上平寺城に戻って下山するほうが良いかもしれない。
最寄り駅(直線距離)