慶長5年(1600年)関ヶ原合戦において西軍に属した長宗我部盛親が陣を構えた。
長宗我部盛親は長宗我部元親の四男で土佐国大高坂城主であった。父元親は慶長4年(1599年)に没しており、家督相続後間もなく関ヶ原合戦が勃発している。
関ヶ原合戦では栗原山山麓に布陣していたが、東軍に内通していた吉川広家が動かず、前方の長束正家も動くことができず傍観していた。合戦後、土佐へ逃れたが所領没収となり浪人として京へ上った。その後、大坂の陣では豊臣秀頼の要請により大坂城に入っている。
長宗我部盛親陣は栗原山付近に置かれていた。 栗原山は奈良時代に「九十九坊」と呼ばれる百余坊の寺院があり、建武2年(1335年)足利氏と新田氏の兵火により焼失したという。いまでも南側の山腹には段々に造成された削平地があり、土塁なども見るとこができる。盛親はこの寺院跡を利用して布陣したものと思われる。
現在東の山腹に「清水寺公園」と書かれた寺院跡があり、ここに盛親陣の案内板が設置されている。
県道215号線沿いに「九十九坊・栗原連理のサカキ」への道標が付いている。ここから山腹へ続く細い道があるが、この途中に案内板が設置された寺院跡がある。ここまで車で入ることができる。
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