築城年代は定かではないが戦国時代末期に千葉氏によって築かれたが、この城は未完成であったといわれる。
近世城郭として現在の姿になったのは慶長15年(1610年)の土井氏入封後で、元名3年(1617年)完成する。これによって鹿島から佐倉へと改められ、古来の佐倉の地は本佐倉と呼ばれるようになった。
和暦(西暦) | 事象 |
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天正20年(1592年) | 下総国小金より武田信吉が四万石で入封。 |
慶長7年(1602年) | 武田信吉は常陸国水戸に転封。 武蔵国深谷より松平忠輝が五万石で入封。 |
慶長8年(1603年) | 松平忠輝は信濃国川中島へ転封。 |
慶長12年(1607年) | 尾張国犬山より小笠原吉次が二万八千石で入封。 |
慶長13年(1608年) | 小笠原吉次は常陸国笠間へ転封。 |
慶長15年(1610年) | 下総国小見川より土井利勝が三万二千四百石で入封。 |
慶長17年(1612年) | 土井利勝は秀忠付の老中に任ぜられ四万五千石に加封。 |
元和元年(1615年) | 土井利勝は大坂冬の陣・夏の陣の功により六万五千二百石に加封。 |
寛永2年(1625年) | 土井利勝は十四万二千石に加封。 |
寛永10年(1633年) | 土井利勝は下総国古河に転封。 豊後国日田より石川忠総が七万石で入封。 |
寛永11年(1634年) | 石川忠総は近江国膳所に転封。 |
寛永12年(1635年) | 摂津国高槻より(形原)松平家信が四万石で入封。 |
寛永17年(1640年) | (形原)松平家信は摂津国高槻へ転封。 |
寛永19年(1642年) | 信濃国松本より堀田正盛が十一万石で入封。 |
万治3年(1642年) | 堀田正信は改易。 |
寛文元年(1661年) | 上野国館林より(大給)松平乗久が六万石で入封。 |
延宝6年(1678年) | (大給)松平乗久は肥前国唐津へ転封。 肥前国唐津より大久保忠朝が八万三千石で入封。 |
延宝8年(1680年) | 大久保忠朝は九万三千石に加封。 |
貞享3年(1686年) |
大久保忠朝は相模国小田原へ転封。 武蔵国岩槻より戸田忠昌が六万一千石で入封。 |
元禄7年(1694年) | 戸田忠昌は七万一千石に加封。 |
元禄12年(1699年) | 戸田忠真は六万七千八百石に減封。 |
元禄14年(1701年) | 戸田忠昌は越後国高田へ転封。 越後国高田より稲葉昌往が十万二千石で入封。 |
享保8年(1723年) | 稲葉昌往は山城国淀に転封。 山城国淀より(大給)松平乗邑が六万石で入封。 |
延享2年(1745年) | (大給)松平乗邑は七万石に加封されるも、老中を罷免され隠居とともに一万石の減封。 |
延享3年(1746年) | (大給)松平乗邑は出羽国山形に転封。
出羽国山形より堀田正亮が十万石で入封。 |
宝暦10年(1760年) | 堀田正亮は十一万石に加封。以後堀田氏が代々続いて明治に至る。 |
佐倉城は台地の西端に築かれている。現在は公園として整備され、本丸・二ノ丸・三ノ丸といった曲輪群が良く残り、北側には発掘調査によって判明した角馬出の堀が再現されている。
佐倉城は台地の西端に本丸、それを取り囲むように二ノ丸、南東に三ノ丸、北に椎木曲輪などを配していた。本丸周辺は空堀や土塁、櫓台などが良く残っている。西麓には出丸が二ヶ所あり水堀が残る。
北側にある国立歴史民俗博物館の中には全国の博物館が発行している書籍類が展示・販売されている。
城門(移築 城門)
駐車場は周辺に多数用意されている。北の歴史民俗博物館や東側の三ノ丸外側付近が便利だ。
最寄り駅(直線距離)