天文6年(1537年)織田信康によって築かれた。 信康は木之下城主であったが、犬山城を築いて居城を移した。
天文13年(1544年)あるいは16年、織田信康は織田信秀に従って美濃の斎藤道三と戦い、加納口の戦いで討死している。信康のあと家督を継いだ織田信清は信長の従兄弟にあたる。
永禄5年(1562年)織田信清は追放された織田信賢の旧領を巡る争いで信長と対立し、楽田城を攻め落とした。しかし、信長の反撃によって犬山城の支城は次々と攻め落とされ、永禄7年(1564年)には犬山城も陥落し、信清は甲斐国へと逃れた。
その後は目まぐるしく城主が入れ替わり、天正12年(1584年)小牧長久手合戦の時は織田信雄の家臣中川定成が城主であった。小牧長久手合戦の緒戦で、大垣城主池田恒興は秀吉に味方すると、かつての居城であった犬山城を急襲して攻め落とした。
豊臣時代には石川貞清が城主であったが、関ヶ原合戦で西軍に属して改易となり、慶長6年(1601年)小笠原吉次が清洲五十二万石で入封した松平忠吉の付家老として城主となる。犬山城はこの吉次の時代に近世城郭へと改修された。しかし、慶長12年(1607年)松平忠吉が没すると吉次は下総国佐倉二万二千石へと移された。
忠吉のあと徳川義直が尾張に入封すると、平岩親吉が付家老として移り十二万三千石を領した。このとき義直はまだ幼く家康の元におり、国政は親吉が名古屋城に入って行い、犬山城は甥の平岩吉範が城代となっていた。慶長16年(1611年)親吉が没すると平岩家は嗣子なく断絶となる。
元和3年(1617年)尾張藩家老成瀬正成が三万石で犬山城となると、以後代々続いて明治に至る。
天守(現存 天守)
黒門(移築 城門)