築城年代は定かではないが建仁年間(1201年〜1204年)に梶原景親によって築かれたと云われる。 梶原景親は源頼朝に仕えた鎌倉幕府の重臣梶原景時の二男景高の子である。梶原氏は正治2年(1200年)鎌倉を追われ上洛するさなか、駿河国清見関での戦いに敗れて一族の多くが討死した。そのうち景高の子豊丸が乳母に連れられて羽黒へ落ちのび、長じて景親と名乗り現在の興禅寺に館を構えた。
梶原氏は羽黒一帯に勢力を持ち、信長に仕えた梶原義景の頃には羽黒三千石を領していた。しかし、天正10年(1582年)梶原義景は本能寺の変で織田信長に殉じて梶原氏は滅亡した。
天正12年(1584年)小牧長久手合戦において羽柴秀吉方の砦として修築され、山内一豊、堀尾茂助が守将となっていた。
羽黒城は梶原氏の菩提寺である興禅寺の東側一帯に築かれていた。 寺の東側、アパートの裏にある竹藪部分が城跡で、南端に土塁のような高台があり、その上に石碑が建っている。北側は堀跡のような窪地があり、竹藪は手入れされたもので、北側の道路に面して土塁の高まりが残る。
興禅寺には梶原氏所縁の案内板が設置されている。お寺の北東側に土塁が付いており、羽黒城の範囲はもう少し広いものと思われる。