築城年代は定かではないが臼井氏によって築かれたと云われる。 臼井氏は桓武平氏千葉氏の一族で、千葉常兼の三男常康が下総国印旛郡臼井を治め、臼井氏を名乗ったことに始まる。
文明11年(1479年)関東管領上杉氏と古河公方との争いで太田道灌の弟太田資忠と千葉自胤によって攻められ、臼井城は落城した。
永禄4年(1561年)臼井興胤の時、里見義尭の家臣正木時茂によって攻められ、興胤は結城に退去。その後に生実城を本拠とした原氏が臼井城を居城とする。
永禄9年(1566年)上杉謙信によって攻められ、「実城堀一重」まで攻め込まれたが、辛うじて落城を免れた。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の後に関東に入部した徳川家康は、酒井家次を三河国吉田より四万石で入部させたが、慶長9年(1604年)家次は上野国高崎に転封となり廃城となった。
臼井城は印旛沼に面した台地に築かれている。臼井城のある台地には州崎砦、仲台砦、田久里砦などが築かれていたが、いずれも宅地化されて遺構は残っていない。
臼井城は東端の主郭と西の二郭が公園として整備されている。主郭と二郭の間は大きな空堀で土橋が架かり、主郭側は虎口に土塁が残って土橋に横矢が掛かる。二郭の西側にも大きな空堀があり、その西が三郭で、太田図書の墓が残っている。
臼井小学校の西にある国道296号線と県道64号線中宿交差点の一本北にある交差点を西へ入り、そのすぐ先を北へ曲がって坂を登っていくと空堀に駐車場がある。
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