築城年代は定かではないが平安時代末期に河越氏によって築かれたと云われる。 河越氏は桓武平氏秩父氏の一族で、秩父重隆が河越へ移り河越氏の祖となった。
治承4年(1180年)源頼朝が伊豆で挙兵すると、はじめは平家方として頼朝と敵対するが、のちに畠山氏などとともに頼朝に従い平家討伐軍に参加した。 河越重頼の娘は頼朝の弟源義経の正室となるなど重用されたが、義経と頼朝の仲違いから重頼・重房父子は誅殺され、武蔵国留守所総検校職の地位も畠山重忠に奪われ河越氏は衰退する。
元久2年(1205年)畠山重忠の乱で、北条義時率いる重忠討伐軍に河越重時・重員兄弟が従軍する。嘉禄2年(1226年)には畠山重忠に奪われていた武蔵国留守所総検校職の地位が鎌倉幕府より河越重時に与えられた。
応安元年(1368年)河越氏は「平一揆」を組織して鎌倉幕府と対立し、河越館に立て籠もったが敗れ、伊勢に落ちて没落した。
明応6年(1497年)山内上杉顕定は河越城の扇谷上杉氏を攻める為に河越氏館跡に上戸の陣を構えている。
その後、小田原北条氏が河越城一帯を勢力下におさめると、重臣大道寺政繁がこの辺りを整備したという。
河越氏館は上戸小学校・常楽寺一帯に築かれていた。近年史跡公園として整備され、「河越館史跡公園」となっている。
整備する以前に地表面に残されていた遺構は、常楽寺北側の堀と北西側の道路に面した土塁であった。
上戸小学校側に河越館跡史跡公園の駐車場がある。 発掘調査で出土した遺物が上戸小学校内の仮設展示場で見ることができるようであるが、現状は日曜日のみのようである。
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