築城年代は定かではないが文亀年間(1501年〜1504年)二俣昌長によって築かれたと云われる。
桶狭間合戦で今川義元が敗死すると今川氏の勢力は衰え徳川氏の支城となる。 元亀3年(1572年)武田信玄は遠江に侵攻、武田勝頼を大将として二俣城を囲んだ。 武田氏は猛攻を仕掛けたが城は堅固で籠城兵もよく守っていた。しかし、城内の水之手が天竜川に井楼を組んでくみ上げていることを知った武田勢は、上流から筏を流してこれを破壊した。水之手を断たれた城内は水不足となり開城した。
天正3年(1575年)長篠の合戦で武田氏を敗った徳川家康は、武田氏の家臣依田信守・信蕃父子が守る二俣城攻略に懸かり鳥羽山城に本陣を構えて、その周囲に毘沙門堂砦、蜷原砦、和田ヶ島砦を築いて包囲した。 父信守が病死するなか信蕃が指揮して奮戦し、諏訪原城が攻略されても抵抗を続け、ついに武田勝頼の勧告により、全ての城兵を助けることを条件として開城、信蕃は堂々と城を出て高天神城へ退去した。
家康は家臣の大久保忠世を二俣城主とした。天正7年(1579年)家康の嫡男松平信康は、織田信長から武田氏に通じて謀叛の疑い有りとされ、家康に信康と生母築山殿の処罰を命じた。岡崎城から二俣城に幽閉されていた松平信康は、この地で自刃させられた。
天正18年(1590年)徳川家康の関東移封にともない、大久保忠世も相模国小田原四万石の城主として移り、替わって浜松城主となった堀尾吉晴の弟堀尾宗光が城主となり、関ヶ原合戦後、堀尾氏が出雲国広瀬へ転封となると廃城となった。
二俣城は天竜川東岸に面した丘陵に築かれており、現在は城山公園として整備されている。
二俣城は北から北曲輪、本丸、二の曲輪、蔵屋敷、南曲輪と空堀で区画された曲輪群が南北に連なっている。
本丸は西側に天守台が残り、北東と南東に虎口を開く。この天守台がいつ誰手によって築かれたのかが謎で、大久保忠世または堀尾氏とする説があり、後者が有力なようである。 北東の虎口は大きく改変されているが、南東虎口は桝形となる。南下にある二の曲輪は本丸に付属するもので、南東に虎口があり、南下の蔵屋敷との間は空堀で区画している。
北曲輪は本丸の北にあり旭が丘神社が鎮座している。北側に土塁が付いており、南北両側を空堀で区画している。現在北の搦め手口はこの北曲輪と本丸の間に入ってくるように道が付いているが、旧状は不明である。
本丸の南下には蔵屋敷、南曲輪とあり堀切で区画されている。また西へ伸びる尾根には西曲輪があり、南側面に高石垣が残る。
二俣小学校の南西にある旭が丘神社を目指す。この搦め手口に駐車場がある。
小学校の北側にある清瀧寺は松平信康の菩提寺で廟があり、かつて天竜川に組まれていたという井楼がある。
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