享禄年間(1528年〜1532年)に朝比奈時茂によって築かれ、後に朝比奈太郎泰方が継いで在城したと云われるが定かではない。
元亀年間(1570年〜1573年)には武田氏の属城として朝比奈又太郎がいて犬居城主天野宮内右衛門景貫と戦った。
天正3年(1575年)6月徳川家康は本多忠勝・榊原康政に命じて光明城を攻略させ、落城後は二俣城主大久保忠世に預けられ忠世の家臣が守備した。天正10年(1582年)武田氏滅亡後に廃城になったと考えられている。
光明城は標高539.7mの光明山山頂から700m程南にあり、「秋葉街道」を城内に取り込んで押さえる要衝に築かれている。
城が築かれる以前には山岳寺院があり、江戸時代には光明寺が再び山上に寺院を建立された。現在「光明寺遺跡」として残る石垣はこの寺院のものであり、城跡は中曲輪や堀切などわずかしか残っていない。
舗装された広い林道が国道382号線、国道152号線が続いており「光明寺遺跡」の道標が建っている。
春野町領家の峯小屋トンネル北口から林道に入り、光明寺遺跡を見て天竜区山東の光明小学校の東側に出るルートで走ってみたが落ち葉が堆積しているくらいで道幅も広く走りやすい。
最寄り駅(直線距離)