築城年代は定かではない。 「広瀬村誌」には寛和年間(985年〜987年)に参議中将藤原友実の長子鷺坂十郎則実が社山城を築いて以降十一代続いて匂坂六郎五郎長能の時に匂坂城を築いて移ったとされるが、信憑性に乏しいとされる。
明応9年(1500年)遠江国守護斯波義寛は弟義雄を社山城に送り込み、遠江での失地回復を目論んだが翌文亀元年(1501年)今川氏親によって二俣城に追われている。
永禄年間(1558年〜1570年)に今川氏が没落すると遠江国を巡って徳川家康と武田信玄が争うようになる。元亀3年(1572年)武田信玄は二俣城を攻略する為に社山城の北方にある合代島に本陣を構えたといい、この時には社山城は武田氏によって攻略されたと推測されているが、史料には出てこず、天正元年(1573年)二俣城を奪われた徳川家康が社山に砦を構えたあるのみという。
社山城は天竜川の東岸にある磐田原台地の北端に築かれている。現在は社山公園として整備されており、横堀や大堀切など見応えのある山城である。
主郭は山頂西側にあり、南北に長い曲輪には八幡社が鎮座する。主郭の東側には空堀を挟んで東曲輪(二の丸)がある。
西の主郭は北と南西側に横堀が巡り、西尾根には圧巻の大堀切が残る。主郭から北へ伸びた尾根の先端にある北曲輪の北下にも横堀がある。
東曲輪は西の空堀に面して大土塁があり、東西に長い曲輪は中央の空堀によって東西二郭に分かれる。東の尾根には二条の堀切が残る。
県道44号線を北上して豊岡南小学校を過ぎ500m程北上した辺りに社山城への道標がある。ここから慈眼寺を過ぎて山の北側に回り茶畑の中を登っていくと登山口に至る。
登山口から1分も登らないうちに北側の横堀が右側に見える。
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