築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1570年)に津久井地衆によって築かれたと云われる。
天正8年(1580年)には白井城の支城で、狩野氏や牧弥六郎・須田加賀守が守将あったが、沼田城の真田昌幸が家臣の海野輝幸に命じて占拠させた。天正10年(1582年)には白井城方が取り戻し牧和泉守が守将となった。本能寺の変の後、沼田城代となった矢沢頼綱は津久田城へ攻め寄せたが、先鋒の中山右衛門尉は津久田城の牧和泉守の伏兵にあい討死した。
津久田城は赤城北中学校の西側に築かれていた。 沼尾川が利根川に合流する地点の南側の台地の上に築かれていたという。
「日本城郭大系」の図面によれば、崖に面した北西隅に本丸を配し、東に二郭、南に二郭の曲輪が空堀で区画されて配されていたようである。現在は宅地や畑となっており、遺構も何も残っていないと思ったのだが、どうやら案内板がどこかにあったようで見逃してしまった。
この城のすぐ下に「上安城入口」という道標があり、城跡かと思って辺りを探しても何もない。よくよく地図を見ると降りた先の地名が「上安城」でこの集落への入口を示しているだけのようである。