永享10年(1438年)上杉憲実によって築かれたと云われる。 憲実は関東管領山内上杉氏五代当主である。
上杉憲実は室町将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏との確執が生じていく中、平井城と金山城は総社城主長尾忠房に命じて密かに築城させていたものだという。永享の乱(1438年)で足利持氏は上杉憲実を討つ為、一色直兼・時家三千騎を派遣し自身も五千騎を率いて武蔵国高安寺に馬を進めた。 憲実は密かに鎌倉を脱し平井城へ逃がれ、室町幕府に急使を派遣して援軍を要請した。 急使を受けた将軍足利義教は上杉持房を将として今川・朝倉・小笠原・山名などに憲実の救援を命じ、越後国からも上杉教朝が三千五百騎の援軍が到着した。 幕府軍は早川尻で持氏方を敗り、持氏は鎌倉へ戻ろうとしたが叶わず幕府軍に降り相模国の弥名寺で剃髪し、上杉憲実は幕府に持氏の助命嘆願行ったが叶わず、持氏は永安寺で自刃した。
享徳3年(1454年)鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺すると、上杉房顕は平井城へ移り、以後関東管領山内上杉氏の本城となった。
天文年間(1532年〜1555年)山内上杉氏は小田原北条氏と度々戦ったが、天文20年(1551年)上杉憲政は平井城を捨てて越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びた。その後、北条幻庵が平井城主となったが天文21年(1552年)長尾景虎の送った軍勢により攻め落とされ、平井城は破却された。
城は鮎川に面した河岸段丘に築かれており、本丸は一部公園となっている。
本丸は鮎川に面し、西に二の丸、北に三の丸(総郭)があった。本丸の西に道路に面して土塁があり、道路は堀跡、北と東にも堀がある。二の丸は西に畑の間にわずかな堀跡があり、総郭は常光寺の道路を西に進んだ所に荒神堀と呼ばれる幅広い堀跡が南北に残っている。
本丸に駐車場がある。本丸公園から北へ少し行った所に個人宅ではあるが、長年上杉氏の研究をされていたという方(故人)の小さな資料館がある。
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