築城年代は定かではないが山内上杉氏によって築かれたと云われる。
永録6年(1563年)武田信玄によって攻められた時の城主は新堀城主多比良友定の重臣安部中務尉で、武田方は見銘寺(現見明寺)を占領して水の手を断ちきって攻め、これに対して安部は大石・大木を投げ落として対抗したが、大石で寺が押しつぶされ火災が発生して山へ燃え移り山上まで広がって櫓も焼け落ち、安部は武田方の陣へ斬り込んで討ち死にしたという。
城は牛伏山山頂から東へ張り出した尾根の先端に築かれており、西から東へ向かって曲輪が配された連郭式山城であった。
現在は、櫓を模した展望台が建ち尾根も整地されてしまい、遺構はほとんど残っていないという。