築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1555年)に多比良氏によって築かれたと云われる。
永禄6年(1563年)武田信玄が上野に侵攻したときの城主は多比良友定で、箕輪城の長野業政とは従兄の関係であった。武田軍が攻め寄せると、上杉家の家宝を焼いて城主以下一族自刃して果てたという。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で上杉謙信の武将藤田信吉が攻めてくると、城主多比良豊後守友定(忠友か?)は降伏し廃城となった。
新堀城は普賢寺の北法にあり、北へ伸びた台地の北端に築かれている。
新堀城は現在主要部が畑となっている。本丸とされる土壇の入口に案内板が設置されており、南側にある堀は現在は浅くなっているが幅が広く大きな空堀であったであろう。その南側が土塁状に一段高くなっており、それより南方は宅地である。
吉井町多比良にある普賢寺を目指す。ここに車を駐めて東から北へ続く車道を歩いて行くと本丸の入口に案内板がある。
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